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「なから」感動する本

最近聴いてんの・・・

2004.02.15~18バリ島

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    2004.02.15~02.18と4日間、インドネシアのバリ島に研修旅行で言ってきました。実質3泊でしたが、ウブド・コマネカリゾート2泊、ヌサドゥア・アマヌサ1泊と言うスケジュールでしたが、アマンリゾートのアマンダリ、アマンキラ、フォーシーズンホテルのサヤンなど代表的なスモールラグジャリーホテルを見学することもできました。極めてまじめな研修旅行でした。

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花寺吉祥寺2

花寺吉祥寺2
観光の名所になっており拝観料もきちんと取る。季節の花々が売り物である。 庭園は見事だが、石仏、石塔のたぐいが豊富である。 それらは優品だけに絞り込んだほうが、わたしの好みではある。

花寺吉祥寺

花寺吉祥寺
5月某日晴れ 利根郡川場村の吉祥寺は九州豊後の戦国大名、大友氏の創建と言われている。

典厩寺ー武田信繁の墓所4

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永禄4年(1560年)の川中島の合戦では武田・上杉両軍合わせて6千人の戦死者が出たと伝わっている。

その戦死者の鎮魂に幕末の松代藩主真田幸貫が合戦三百年の記念殿として閻魔堂を建設し、閻魔大王を建立し、万延元年(1860年)に三百年祭の大法要を行い川中島の合戦で戦死した群霊の冥福を祈った。

しかし単に戦死者の群霊の鎮魂であるならば、死者を裁く閻魔大王をまつるであろうか。その力にすがりたい目的があったように思えてならない。

典厩寺ー武田信繁の墓所3

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信繁は兄信玄の副将格であったと言い。また名補佐役であったと言う。年齢差は5歳であった。

「影武者」では、信玄の副将格また影武者として12歳離れた弟の信廉(のぶかど)を山崎努が演じており、一門の長老として重臣達をまとめ上げることに腐心するところを好演していたが、実際の信繁はそんな感じで家臣と信玄のパイプ役を務めたのかもしれない。

墓石に刻まれた銘文は典厩寺のパンフレットによると、以下の通り。

永禄四年辛酉九月十日秋

松操院殿鶴山巣月大居士

甲斐源氏武田左典厩信繁

現在の大河ドラマ「風林火山」では信玄の市川亀次郎の弟として嘉島典俊が信繁を演じ、これもなかなかの好演である。

典厩寺ー武田信繁の墓所2

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典厩寺の本堂の壁には武田軍の風林火山(孫子)の旗と上杉軍の「毘沙門天」「懸れ乱れ龍」の旗が描かれており、ここが両軍が激戦を繰り広げた場所であることを示している。

典厩寺ー武田信繁の墓所1

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武田信玄の弟、信繁は永禄4年(1560年)の川中島の合戦で戦死している。

江戸時代元和八年(1622年)、川中島を治めていた松代藩主真田信之はかつての主筋武田氏の副将であった武田信繁の菩提を弔うために信繁の最後の地に近くにあった寺を信繁の通称「左馬助」の唐名「典厩」にちなむ典厩寺と改名し、永遠に史跡として記念することになった。

川中島古戦場3

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上杉謙信は黒糸縅の鎧に頭巾をかぶった姿が昔から一般的である。

ところが、伝わっている謙信の遺品と言われる兜は黄金作りの豪華なものが多く、イメージとの違いに戸惑うことがある。

実際の謙信はイメージと違い、リッチでハイカラな武将だったのではないか。

川中島古戦場2

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武田信玄と言うと高野山に伝わる、でっぷりと太った肖像画が有名である。

ところが近年の研究でその肖像は畠山某を描いたとされ、実際は土岐頼康像と

言われるものが信玄を描いたのだと言う説がある。

黒澤明監督の映画「影武者」では当初、太った信玄像が監督の念頭にあったらしく、勝新太郎が配役されたが、撮影が始まるとすぐに黒澤と勝は対立、勝は降板した。代役の黒澤映画の常連仲代達矢はスリムで貴族的な信玄を演じた。

奇しくも最近の研究で信玄はスリムであったことが、有力であり、仲代の信玄像は実際に近いものとなった。

川中島古戦場1

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五月某日 朝から快晴。

長野県各所を訪問。その途中、長野インターを下りるとすぐに右側に八幡原古戦場の跡の公園が見えてくる。駐車場やトイレが整備されており、気軽に立ち寄ることが出来る。

この公園の呼び物は八幡宮の手前にある上杉謙信と武田信玄の一騎打ちのブロンズ像だ。

謙信と信玄が実際に戦場で一騎打ちで戦ったかどうかは定かではない。ただ近衛前久が謙信に送った書状に謙信が自ら刀を取って戦ったと言う記述がでているが、信玄と大将同志が一騎打ちしたとは書いていない。相当な激戦であり、突発的な接近戦だったと思われる。

また八幡原に信玄の本陣があったかどうかも最近の研究では疑問視されている。

上毛高原近く謎の石塔3

上毛高原近く謎の石塔2

上毛高原駅近く謎の石塔1

五月某日

上毛高原駅近くの小川城跡の付近の畑の中に7体の地蔵菩薩を周囲に従える石塔を発見した。ちょっと見た限りでは碑文は見当たらず、制作年代もはっきりしない。

何らかの供養塔と思われるが、謎の石塔である。

花時計

花時計

5月某日 

猿ヶ京温泉満天星の湯の駐車場のかたわらに花時計がある。この駐車場のある場所は前は見晴館と言う旅館が立っていたところで、その旅館を取り壊してこの満天星の湯が立てられた。見晴館時代のなごりは駐車場の片隅に昔の庭園のあとの庭石と祠があるところにわずかにしのぶ程度である。かつてはそこに池があった。鯉も泳いでいたのではないだろうか。旅館の玄関は駐車場から階段を一段上がった所にあり、そのロビーの建築はモダンな感じがした。私が猿ヶ京に戻ってきてから一度も見晴館で宴会などの利用をしたことはなかった。

カッパ広場の河童地蔵

五月某日
猿ケ京の不可思議な動物を訪ねる旅、湯のまちから北側の赤谷川の川原へおりていくとカッパ広場がある。ここはダムが出来る前は生井川原と言われ、温泉が沸いていた。旅館も3軒あり、そのうちの一つがわが猿ヶ京ホテルの前身、桑原館だ。
カッパ地蔵と言うからには地蔵菩薩であり、観音様と同格の仏様と言うことになる。「カッパのこう薬」という伝説があり、それによれば、昔から地元の信仰を集めていた地蔵さんなのだという。
にもかかわらず、新太郎という俗っぽい名前を持ち、治子と言う妻がいて温(あつし)、泉(いずみ)の1男1女?を設けて一家を形成している。年齢は昭和62年生まれなのでまだ22歳位である。当初はカッパ地蔵のみがこの場所に現れた。数年後、妻と二人の子供達も呼び寄せたようだ。その時に俗名も明らかになり、「新治温泉」の4文字をそれぞれ頭にいただく家族であることが判明した。その名前は当時の新治村観光協会にとっても歓迎すべき名前であった。思うにカッパ地蔵の方でも家族を呼び寄せるにあたり、毎年法要を行ってくれる新治村当局と観光協会に配慮し、もともとの名前をそのように改名したものと思われる。
現在は新治村は他の2町と合併しみなかみ町になっている。新治村観光協会もまた合併し、水上町まちづくり観光協会に変わっている。
ことしも7月29日に国土交通省(ダム管)肝煎りによるカッパ祭は開催されるが、恒例のカッパ地蔵の法要はおこなわれるのだろうか。

09年大河は「天地人」直江兼続を描く

5月某日
新聞によりますと、再来年2009年のNHK大河ドラマは標記の通り、
直江兼続を描いた「天地人」に決定したと言う。

以下(某新聞記事による)

09年大河は「天地人」直江兼続を描く
NHKは4月26日、09年の大河ドラマを「天地人」に決めたと発表した。
上杉景勝(かげかつ)の家臣で、戦国時代に「義」の精神を貫いた
名将、直江兼続の波乱の生涯を描く。原作は火坂雅志さんの同名小説
で、脚本は連続テレビ小説「どんど晴れ」を手がけている小松江里子
さん。配役は未定。

以上

先日、上越市の春日山山城跡を散策した際に、城跡公園の売店で目にし、
きになって購入した「天地人」が大河ドラマになると知り、驚いています。
直江兼続は上杉謙信の猿ヶ京の命名伝説でも登場する知恵者として知られ
る人物でそう言う意味では猿ヶ京にゆかりの人物でもあります。
何とか再来年の放送時には関連づけたいですね。

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5月4日の赤谷湖

GWウィークの最盛期を迎えた赤谷湖は、なんとか水も満水になり行楽シーズンの体裁を整えた感がある。普通のオフシーズンに関してはいつも6~7部の湖水で済ましているが、GWには最高の晴れ姿で行楽客の目を楽しませてくれている。今年は記録的な暖冬で、雪解け水独特の酸素を多く含んだコバルトブルーの湖水と言うわけにはいかず、このような澄んだ真っ青な色ではじめから満水の状態であるというのも珍しいことではないか。またつい2~3日前まで丸坊主のようだった周囲の山の木々の様子もここに来ていっせいに新芽が芽吹き始めた。

これから梅雨時の数ヶ月は赤谷湖は年間で一番美しい姿になる。その後夏季に入ると下流域のためにダムの水は減る一方となる。ダム湖の宿命として仕方ないわけではある。ダムの名前自体は地名を取って相俣ダムと命名された。湖の方も「相俣湖」となるところ、猿ヶ京温泉から異論が出たため、河川の名前を取って赤谷湖と命名されたと言う。現在ダムサイドのほとりには、湖に突き出した形で展望台が設けられている。そのの一角に「日本ダム湖百選」と言う石碑が建てられている。平成17年に指定されたとのことだ。湖の規模のわりにダムの大きさが小さいのは、赤谷川の非常に狭隘な渓谷を利用してこのダムは建てれているからである。昭和30年に完成しているが、すぐさま水漏れが表面化し、水漏れ防止の工事を何年かかけて完成させている。したがってダム自体は長さはあまりないのだが、使用されたコンクリートの量は相当なものになっていると思われる。