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「なから」感動する本

最近聴いてんの・・・

2004.02.15~18バリ島

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    2004.02.15~02.18と4日間、インドネシアのバリ島に研修旅行で言ってきました。実質3泊でしたが、ウブド・コマネカリゾート2泊、ヌサドゥア・アマヌサ1泊と言うスケジュールでしたが、アマンリゾートのアマンダリ、アマンキラ、フォーシーズンホテルのサヤンなど代表的なスモールラグジャリーホテルを見学することもできました。極めてまじめな研修旅行でした。

「風林火山」から「天地人」へ

12月某日snow

12月16日に放送を終えた「風林火山」は男性配役に実力者を揃え、見ごたえのある戦国ドラマでした。

猿ヶ京の名づけ親、ガクトさんが演じた上杉謙信の描かれ方が余りにも話題性重視だったところが?

ではありましたが。

猿ヶ京ゆかりの嘉島典俊さんが、信玄の弟、信繁を兄思いの繊細な人物として演じたのは好感が持てました。

最終回で謙信の姉「お仙」が、謙信の無事を願って、わが子「喜平次」と仏壇に手を合わせるシーンがありましたが、この「喜平次」が後の上杉景勝で、再来年の大河ドラマ「天地人」の主人公、直江兼続の主君で謙信亡き後の上杉家に振りかかる苦難を直江とともに乗り越えていくドラマです。

わざわざこのシーンを入れたのは、再来年の大河ドラマ「天地人」へのバトンタッチの意味もあったと思います。

猿ヶ京温泉の猿ヶ京は上杉謙信が名づけたと言う伝説がありますが、その時に謙信にこれは良い夢だと言う、直江山城守と言う家臣が出てきます。この直江山城守が直江兼続のことです。

と言うことは、猿ヶ京の名前は謙信と直江の合作と言うことになります。

この逸話をどれだけ理解して貰って、宣伝できるでしょうかconfident

典厩寺ー武田信繁の墓所4

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永禄4年(1560年)の川中島の合戦では武田・上杉両軍合わせて6千人の戦死者が出たと伝わっている。

その戦死者の鎮魂に幕末の松代藩主真田幸貫が合戦三百年の記念殿として閻魔堂を建設し、閻魔大王を建立し、万延元年(1860年)に三百年祭の大法要を行い川中島の合戦で戦死した群霊の冥福を祈った。

しかし単に戦死者の群霊の鎮魂であるならば、死者を裁く閻魔大王をまつるであろうか。その力にすがりたい目的があったように思えてならない。

典厩寺ー武田信繁の墓所3

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信繁は兄信玄の副将格であったと言い。また名補佐役であったと言う。年齢差は5歳であった。

「影武者」では、信玄の副将格また影武者として12歳離れた弟の信廉(のぶかど)を山崎努が演じており、一門の長老として重臣達をまとめ上げることに腐心するところを好演していたが、実際の信繁はそんな感じで家臣と信玄のパイプ役を務めたのかもしれない。

墓石に刻まれた銘文は典厩寺のパンフレットによると、以下の通り。

永禄四年辛酉九月十日秋

松操院殿鶴山巣月大居士

甲斐源氏武田左典厩信繁

現在の大河ドラマ「風林火山」では信玄の市川亀次郎の弟として嘉島典俊が信繁を演じ、これもなかなかの好演である。

典厩寺ー武田信繁の墓所2

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典厩寺の本堂の壁には武田軍の風林火山(孫子)の旗と上杉軍の「毘沙門天」「懸れ乱れ龍」の旗が描かれており、ここが両軍が激戦を繰り広げた場所であることを示している。

典厩寺ー武田信繁の墓所1

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武田信玄の弟、信繁は永禄4年(1560年)の川中島の合戦で戦死している。

江戸時代元和八年(1622年)、川中島を治めていた松代藩主真田信之はかつての主筋武田氏の副将であった武田信繁の菩提を弔うために信繁の最後の地に近くにあった寺を信繁の通称「左馬助」の唐名「典厩」にちなむ典厩寺と改名し、永遠に史跡として記念することになった。

川中島古戦場3

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上杉謙信は黒糸縅の鎧に頭巾をかぶった姿が昔から一般的である。

ところが、伝わっている謙信の遺品と言われる兜は黄金作りの豪華なものが多く、イメージとの違いに戸惑うことがある。

実際の謙信はイメージと違い、リッチでハイカラな武将だったのではないか。

川中島古戦場2

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武田信玄と言うと高野山に伝わる、でっぷりと太った肖像画が有名である。

ところが近年の研究でその肖像は畠山某を描いたとされ、実際は土岐頼康像と

言われるものが信玄を描いたのだと言う説がある。

黒澤明監督の映画「影武者」では当初、太った信玄像が監督の念頭にあったらしく、勝新太郎が配役されたが、撮影が始まるとすぐに黒澤と勝は対立、勝は降板した。代役の黒澤映画の常連仲代達矢はスリムで貴族的な信玄を演じた。

奇しくも最近の研究で信玄はスリムであったことが、有力であり、仲代の信玄像は実際に近いものとなった。

川中島古戦場1

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五月某日 朝から快晴。

長野県各所を訪問。その途中、長野インターを下りるとすぐに右側に八幡原古戦場の跡の公園が見えてくる。駐車場やトイレが整備されており、気軽に立ち寄ることが出来る。

この公園の呼び物は八幡宮の手前にある上杉謙信と武田信玄の一騎打ちのブロンズ像だ。

謙信と信玄が実際に戦場で一騎打ちで戦ったかどうかは定かではない。ただ近衛前久が謙信に送った書状に謙信が自ら刀を取って戦ったと言う記述がでているが、信玄と大将同志が一騎打ちしたとは書いていない。相当な激戦であり、突発的な接近戦だったと思われる。

また八幡原に信玄の本陣があったかどうかも最近の研究では疑問視されている。

09年大河は「天地人」直江兼続を描く

5月某日
新聞によりますと、再来年2009年のNHK大河ドラマは標記の通り、
直江兼続を描いた「天地人」に決定したと言う。

以下(某新聞記事による)

09年大河は「天地人」直江兼続を描く
NHKは4月26日、09年の大河ドラマを「天地人」に決めたと発表した。
上杉景勝(かげかつ)の家臣で、戦国時代に「義」の精神を貫いた
名将、直江兼続の波乱の生涯を描く。原作は火坂雅志さんの同名小説
で、脚本は連続テレビ小説「どんど晴れ」を手がけている小松江里子
さん。配役は未定。

以上

先日、上越市の春日山山城跡を散策した際に、城跡公園の売店で目にし、
きになって購入した「天地人」が大河ドラマになると知り、驚いています。
直江兼続は上杉謙信の猿ヶ京の命名伝説でも登場する知恵者として知られ
る人物でそう言う意味では猿ヶ京にゆかりの人物でもあります。
何とか再来年の放送時には関連づけたいですね。

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謙信公「お立ち飯」ー弁当5

0704151_093 かまぼこの表面には謙信公の旗印「毘」も文字が染め抜かれています。

さらにその下には、越後名物の笹団子も添えられていました。

謙信公「お立ち飯」ー弁当4

0704151_091 熊笹の包みの中には、栗おこわと白米に紫蘇のふりかけをふったおにぎりが一個づつ入っていました。

謙信公「お立ち飯」ー弁当3

0704151_089 中をひらくとこの様になっています。謙信公の旗印「毘」の文字の紙包みのん中は「塩」です。謙信公が武田信玄に塩を送ったとする話「敵に塩を送る」の故事にちなんでいます。

謙信公「お立ち飯」ー弁当2

0704151_088 駅弁の表紙にはお坊さんの姿でありながら軍を指揮する軍配をもった謙信公が描かれています。

謙信公「お立ち飯」ー弁当1

0704151_087 直江津駅の名物駅弁、「謙信公お立ち飯」です。

この日は強風で電車が動かず、駅の構内は電車の遅れであせっている人々であふれていました。

この駅弁は改札口を入った所で売っていて、わざわざ入場券を買って入り、買いました。

お立ち飯とは謙信公が戦争に出る前に兵士達に振舞った豪華なご馳走のことです。

浜善光寺4

0704151_086 正面から見た十念寺(浜善光寺)。

一方、武田信玄も善光寺の本尊を甲斐の国に持ち帰り、そこに善光寺を立ててしまいました。

由緒あるご本尊を持っていかれた謙信公は悔しかったのでは、ないかと思います。

その御本尊、信玄死後、武田家の滅亡の後は豊臣秀吉が一時確保していたともきいていますが、現在は元の長野市の善光寺に収まっているようです。

その遍歴を探ってみるのもまた面白そうです。

浜善光寺3

0704151_085 門の脇に、「信州善光寺大本願別院」とあります。

浜善光寺2

0704151_084 十念寺のお堂にかかる「浜善光寺」の額です。

浜善光寺1

0704151_083 現在の十念寺はかつて、謙信公が信州の善光寺の僧達をこの本拠地の越後の府中に移した場所にあたります。

日本海の浜辺に近かったので、浜の善光寺とも言われていました。

御館3

0704151_082 御館公園の遠景です。今はこの四角い公園の区画にかつての館の広さを想像するしかないのです。

御館の乱は上杉景勝、直江兼続主従の勝利に終わり、敗れた上杉三郎は鮫ヶ尾城で自刃し、その前にこの御館は攻められて焼け落ちました。

御館2

0704151_081 公園の車止めにはめこまれた「御館公園」のレリーフ。

ここは上杉三郎に味方した、上杉憲政(のりまさ)が、北条氏に本拠地だった上州の平井を追われ、謙信公に保護され、上杉の姓と関東管領と言う役職を譲り、余生を送っていたとこrではありますが、謙信公の跡目争いに憲政も巻き込まれ、景勝の家来に殺害されてしまいます。

御館1

0704151_080 現在の直江津駅近くに史跡「御館(おたて)」はあります。

かつては越後の国の政庁が置かれたと言われ、最近の発掘調査だと二重の堀を持つ堂々たる居館だったことが分かっています。

ここは謙信公亡き後の上杉三郎と上杉景勝との跡目争いのことを御館の乱と言う元になったところです。

来年の上杉景勝の家臣直江兼続を主人公とするNHK大河ドラマ「天地人」のクライマックスになるかと思われる事件がその御館の乱なのです。

林泉寺16

0704151_077 林泉寺の最初に見た門を後ろから見た画像です。これもまた小ぶりなりに美しい門です。

林泉寺15

0704151_076 林泉寺の楼門を後ろから撮影した画像です。「第一義」の画像は謙信公の揮毫(きごう)したものです。謙信公は戦においても「義」を重んじた武将と言われています。

林泉寺14

0704151_075 再び謙信公のお墓を遠景から撮った画像です。

林泉寺13

0704151_074 謙信公の父の長尾為景公の石塔。謙信公が幼少の時になくなりました。その時に越後の国は乱れていて、そのお葬式に謙信公は幼いながらも鎧を着て参列したと言われています。

林泉寺12

0704151_073 謙信公の父、長尾為景(ためかげ)公と祖父の長尾能景(よしかげ)公のお墓です。

林泉寺11

0704151_072 川中島戦死者供養塔。

林泉寺10

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前の小さい石塔がもともとのお墓で、後ろの大きい石塔は近代に華族となった上杉家の子孫が立てたものらしいです。

林泉寺9

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謙信公のお墓の正面です。

林泉寺8

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これは川中島の戦いで戦死した越後の兵士の供養塔です。

時代は新しそうです。

林泉寺7

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これが謙信公の墓と言われている石塔です。

謙信公は死後、鎧を着けた姿で漆で固められ、甕に入れられ、春日山城に安置されていたとも言われていますが、後に上杉家が関が原の戦いの後に徳川家康の命令で米沢に移ったときにその霊廟が米沢に建てられています。

林泉寺6

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墓地に来ました。堀秀治公は上杉景勝が会津に移った後の春日山城主です。

通称「久太郎」と言い、司馬遼太郎の小説などに名前だけはしばしば出てくる武将です。

林泉寺5

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展示室の方から見た楼門です。なかなか堂々とした建物です。

林泉寺4

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その楼門にかかっている額です。

「春日山」そして左側に縦書きに「藤原輝虎 (花押)」とあります。

上杉謙信公は一時、時の将軍足利義輝から名前の一字を貰い、輝虎と名乗っていたことがありました。また公式の文章では、藤原氏を名乗っていたことをはじめて知りました。

林泉寺3

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その門の奥にある、見事な二階建ての楼門です。

林泉寺2

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林泉寺の入り口を守っている門です。春日山城から移築されたと言われています。

林泉寺1

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上杉謙信公が幼い頃に学び、その父や祖父も葬られている林泉寺です。

謙信公関係の遺物も展示室で見ることが出来ます。

春日山城29

0704151_078 城下から見上げた春日山城の遠景です。戦国時代の代表的な山城であり、越後一国の政治の中心地にふさわしい規模を持った城でした。

春日山城28

0704151_060 上杉謙信公の銅像の近影です。

謙信は小柄であったといわれていますが、堂々たる風格のブロンズ像です。

春日山城27

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上杉三郎の屋敷跡。

上杉三郎は小田原の北条氏康の七男で謙信公の元に人質で来ていたのを、謙信公がかわいがり、養子にしていました。

美男子であったと言われ、一時は謙信公の跡継ぎも目前にありましたが、同じ養子の景勝と直江兼続主従との争いに敗れ、自害しました。

最近は悲劇の主人公として、小説のモデルにもなっているようで、ここを訪ねるファンも少なくいないとこの案内板にはあります。

春日山城26

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三の丸跡の案内板。

春日山城25

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城跡から旧高田市方面の眺め。旧高田市と旧直江津市が合併して上越市になったのだそうです。

春日山城24

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城跡の真南方面の眺め。まだ雪を抱いた山脈が見えます。

春日山城23

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城跡から直江津港方面の眺め。この日は強風で日本海が荒れていました。

春日山城22

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本丸から下の眺め。ここを鎧兜を付けて上がってくるのは大変だったでしょう。

春日山城21

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上杉謙信公が能登の七尾城を囲んだ陣の中で、詠んだとされる漢詩です。

「霜がわが軍の野営の地面を覆っている」

「深夜の月を見れば、何匹かの鴨が通っていく」

「わが故郷の越後の山とこの能登の景色を両方とも我が物になった」

「故郷では我らの遠征のことを想っているだろうが、それはそれで、今日はこの月をめでよう」

春日山城20

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これも本丸の案内板です。

謙信公をはじめ歴代の城主は、普段は平地の「お屋敷」で生活をしていました。

春日山城19

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本丸の案内板です。

春日山城18

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本丸と言われる城跡の中心部に向かっている道です。

春日山城17

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城跡から信州方面の眺め。この方向に、謙信公と武田信玄が戦った川中島や善光寺があります。

春日山城16

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春日山城15

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城跡の休憩所。奥に毘の文字が見えます。

春日山城14

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護摩堂付近から、城下を見下ろします。

春日山城13

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これは護摩堂の案内板です。

春日山城12

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毘沙門堂をしたから見上げます。当然復元されたものです。

春日山城11

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このお堂は謙信公が深く信仰していた毘沙門天のお堂でした。

謙信公の旗印は「毘沙門天」の「毘」の字を大きく染め抜いた旗印です。

春日山城10

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直江屋敷を跡にして登って行くと形の良い、お堂が見えてきました。

春日山城9

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直江屋敷跡の案内板。

春日山城8

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直江宅跡に生えているカタクリの花。

春日山城跡一帯に沢山ありました。

春日山城7

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直江山城守の宅跡だそうです。来年のNHK大河ドラマの主人公、直江兼続の家があった一角でしょうか。

春日山城6

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城跡を登って行くと、途中でこの標識。

直江屋敷へ進路を取りました。

春日山城5

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駐車場から見上げると上杉謙信公のブロンズ像。

あとで足元に行って見ました。

春日山城4

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春日山城3

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上杉謙信公を祭る春日山神社の看板。

春日山城2

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こちらはここ一帯に立っている案内板。

これからちょくちょくお世話になります。

春日山城1

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4月某日 訪れた上越市の春日山城跡。

これは文部省の立てた案内板。