これが謙信公の墓と言われている石塔です。
謙信公は死後、鎧を着けた姿で漆で固められ、甕に入れられ、春日山城に安置されていたとも言われていますが、後に上杉家が関が原の戦いの後に徳川家康の命令で米沢に移ったときにその霊廟が米沢に建てられています。
墓地に来ました。堀秀治公は上杉景勝が会津に移った後の春日山城主です。
通称「久太郎」と言い、司馬遼太郎の小説などに名前だけはしばしば出てくる武将です。
展示室の方から見た楼門です。なかなか堂々とした建物です。
その楼門にかかっている額です。
「春日山」そして左側に縦書きに「藤原輝虎 (花押)」とあります。
上杉謙信公は一時、時の将軍足利義輝から名前の一字を貰い、輝虎と名乗っていたことがありました。また公式の文章では、藤原氏を名乗っていたことをはじめて知りました。
その門の奥にある、見事な二階建ての楼門です。
林泉寺の入り口を守っている門です。春日山城から移築されたと言われています。
上杉謙信公が幼い頃に学び、その父や祖父も葬られている林泉寺です。
謙信公関係の遺物も展示室で見ることが出来ます。
城下から見上げた春日山城の遠景です。戦国時代の代表的な山城であり、越後一国の政治の中心地にふさわしい規模を持った城でした。
上杉謙信公の銅像の近影です。
謙信は小柄であったといわれていますが、堂々たる風格のブロンズ像です。
上杉三郎の屋敷跡。
上杉三郎は小田原の北条氏康の七男で謙信公の元に人質で来ていたのを、謙信公がかわいがり、養子にしていました。
美男子であったと言われ、一時は謙信公の跡継ぎも目前にありましたが、同じ養子の景勝と直江兼続主従との争いに敗れ、自害しました。
最近は悲劇の主人公として、小説のモデルにもなっているようで、ここを訪ねるファンも少なくいないとこの案内板にはあります。