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「なから」感動する本

最近聴いてんの・・・

2004.02.15~18バリ島

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    2004.02.15~02.18と4日間、インドネシアのバリ島に研修旅行で言ってきました。実質3泊でしたが、ウブド・コマネカリゾート2泊、ヌサドゥア・アマヌサ1泊と言うスケジュールでしたが、アマンリゾートのアマンダリ、アマンキラ、フォーシーズンホテルのサヤンなど代表的なスモールラグジャリーホテルを見学することもできました。極めてまじめな研修旅行でした。

牧水碑

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当館がある湯の町通りから赤谷川の渓谷をまたいだ水管橋の雪が溶けて、対岸に行けるようになりました。若山牧水の「そこに「猿ヶ京村」という不思議な名の部落のあるのを見るであろう」と刻まれた石碑のところまで行けるようになりました。この石碑は対岸に五基ある歌碑の道のうちの1基になります。昨日初めて行ったのですが、午前中はまだ階段が凍っていてしりもちをついてしまいました。危うく犬の○ンに手を付くところでしたが、大丈夫でした。

みなかみの碑

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猿ヶ京ホテルの隣り、三国路与謝野晶子紀行文学館の門前にある、『みなかみ紀行』の石碑です。

『私は川の水上といふものに不思議な愛着を感ずる癖を持っている。一つの流れに沿って次第にそのつめまで登る
そして峠を越せば其処にまた一つの新しい水源があって小さな瀬を作りながら流れだしている。といふ風な処に出会ふと、胸の苦しくなる様な歓びを覚えるのが常であった。』

若山牧水先生の長子で文学者の故若山旅人先生の筆によるもので
す。ちなみに旅人先生は一級建築士で宮崎県にある牧水の生家跡
の記念館は旅人先生の設計によるものです。

地名も「猿ヶ京温泉」になれば・・・

pic_0043となりの湯宿温泉(ゆじゅくおんせん)は、この十月の合併でみなかみ町になるのを機に、地名として「湯宿温泉」とすることを決め、運動していたが、このほど決定したそうである。
つまり「利根郡みなかみ町湯宿温泉」になる。
先日の旅館組合の会議で、それでは猿ヶ京も猿ヶ京温泉にしようと言う話になり、区の評議会に話を上げることになっている。
猿ヶ京も猿ヶ京温泉とし、「利根郡みなかみ町猿ヶ京温泉何番地」と言う表記にしようということだ。
若山牧水のみなかみ紀行に猿ヶ京に言及している部分がある。

『読者よ、試みに参謀本部五万分の一の地図「四万」の部を開いて見給え。真黒に見えるまでに山の線の引き重ねられた中にただ一つ他の部落とは遠くかけ離れて温泉の符号の記入せられているのを、少なからぬ困難の末に発見するであろう。それが即ち法師温泉なのだ。更にまた読者よ、その少し手前、沼田の方角に近い処に視線を落して来るならば其処に「猿ヶ京村」という不思議な名の部落のあるのを見るであろう。』

つまり、法師温泉は大正11年の時点で温泉として認知されていた。当時まだ猿ヶ京は笹の湯温泉1軒と湯島温泉数軒に分れていた。
昭和30年にダムが出来てやっと猿ヶ京温泉になる。猿ヶ京区民の総意で地名の変更ができるだろうか。やらねば・・・

みなかみ紀行とみなかみ町

doku35ことしの10月、ここ猿ヶ京温泉がある新治村と水上町と月夜野町が合併して「みなかみ町」になるそうな。このみなかみ町は若山牧水先生の名著「みなかみ紀行」にちなむと新聞には書かれていた。でも「みなかみ紀行」を一度でも読んだことがある人は、その大正11年の水上紀行の旅で牧水は現水上町を訪れていないことに気づくだろう。
その時は月夜野町と新治村しかきていない。大正11年10月22日、沼田市の鳴滝旅館を出た牧水は、月夜野町で茂左衛門地蔵尊や黒岩八景を通過しつつ、新治村に入り猿ヶ京で創作社の会員M_氏を訪ね、その夜は法師温泉に泊まっている。 翌23日は法師温泉を出て、猿ヶ京で昼食、湯宿温泉に泊まっている。つまり、「みなかみ紀行」は新治村と月夜野町にとって記念すべき紀行文である。最近、あるジャーナリストから「はじめ「みなかみ町」と見たときに、物議を醸した「南セントレア市」とかと同じ流行の平仮名、片仮名表記だと思ってしまいました。」と言うことが書かれたメールを貰った。この「みなかみ町」が「みなかみ紀行」に由来すると言うのも、そこを補足するために考えられた「牽強付会(ケンキョウフカイ)」と言えるかも知れない。
 しかし、これも何かの縁。これを機に若山牧水先生の「みなかみ紀行」に書かれた河の上流の美しい自然と素朴な人々との交流、当時からあった自然破壊への静かな怒りの思想をバイブルにあたらしいまちづくりを進めて行きたい。