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「なから」感動する本

最近聴いてんの・・・

2004.02.15~18バリ島

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    2004.02.15~02.18と4日間、インドネシアのバリ島に研修旅行で言ってきました。実質3泊でしたが、ウブド・コマネカリゾート2泊、ヌサドゥア・アマヌサ1泊と言うスケジュールでしたが、アマンリゾートのアマンダリ、アマンキラ、フォーシーズンホテルのサヤンなど代表的なスモールラグジャリーホテルを見学することもできました。極めてまじめな研修旅行でした。

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今年は早い!ザゼンソウ

今年は早い!ザゼンソウ
富士見村沼窪のザゼンソウです。今年は天候も良いので、開花が早まったようです。赤城インターから約15分。

上杉謙信の後継者ー風林火山の登場人物その4

・武田信玄のあと、戦国大名としての武田家は勝頼の代で織田信長によって滅ぼされてしまう。いっぽうライバルの上杉謙信の家は謙信が天正六年(1579年)に脳溢血で急死した後、あとを継いだ養子の景勝(かげかつ)の子孫が形式的には幕末まで上杉家を守っている。形式的と言ったのは、江戸時代が始まって景勝の子孫は絶える。そこに親戚の吉良上野介義央の子が上杉家の養子となり、後を継ぐからである。また、クリントン大統領が尊敬しているとかで有名になった上杉鷹山も養子に入っている。したがって血統は途絶えているが、家としては存続していた。

・上杉景勝は謙信の姉と、一族の長尾政景との間に出来た男子で、幼少の頃は喜平次、長じて顕景(あきかげ)と名乗り、妻を持たない謙信の養子となり、景勝と名乗っている。

・景勝の出身である、長尾家は今の六日町付近を治め、上田長尾家と呼ばれ、上田衆として謙信の家中でも独立の気風を持っていたといわれる。景勝の父、政景は謙信の義理の兄であり、すぐれた武将でもあったが、春日山の謙信の本家からは油断のならない人物と見られていた。

・景勝の側近も上田衆出身者が多かった。その中の一人が樋口与六と言う知恵者で、これが後の直江山城守兼続になる。

・謙信は生前、跡継ぎを決めていなかった。そのためその死後、跡目を巡って、争いが置きた。この争いは、養子の景勝と小田原の後北条氏から来た養子の景虎との間で行われ戦争になり、これに謙信の養父にあたる上杉憲政(その館は御館(おたて)と呼ばれた)がからんだために御館の乱と呼ばれた。

・御館の乱で景勝と上杉家の跡目を争った景虎は、後北条氏の三代氏康の実子で、上杉家と北条家が和睦をした際に、謙信の養子になり、関東から越後の春日山城ににやってきた。もともとの名は氏秀と言った。謙信から謙信の最初のいみなである「景虎」の名を貰い、通称は三郎を名乗った。謙信の最初のいみなと紛らわしい限りなので、三郎景虎と呼ばれている。

・謙信の死後、先に動いたのは景勝の側近グループである樋口与六を中心とする上田衆だった。早速、本城の春日山城の本丸に景勝を保護しそこを占拠した。一方の三郎景虎は春日山を親北条グループの側近たちと落ちていった。

・この争いに介入したのが、元関東管領の上杉憲政だった。憲政は自分を関東から追い出した北条氏の血を引く三郎景虎に加担した。

・後継者争いは越後の国人衆がどちらに着くかで決着が付くかと思われた。

・結論的には、景勝の側近、樋口与六の弁舌が功を奏し、本庄繁長をはじめとする国人衆のほとんどが景勝側を支援する形になった。

・数ヶ月の小競り合いの末、景勝は三郎景虎を御館に襲いこれを滅ぼし、また関東から北条氏が三郎景虎の応援に差し向けた軍勢を押し返して、謙信の後継者として越後の国主におさまった。

上杉謙信(2)ー風林火山の登場人物

上杉謙信が三国峠を越えた回数は何回か?

持谷靖子が猿ヶ京温泉史を書くに当たって、群馬県史資料編などをもとに調べたところ合計12回になるらしい。

1、永禄3年(1560年)8月越山  ~翌年(1561年)6月帰着 ☆

2、永禄4年(1561年)11月越山 ~翌年(1562年)3月帰着 ☆

3、永禄5年(1562年)11月越山 ~翌年(1563年)6月帰着 ☆

4、永禄6年(1563年)閏12月  ~翌年(1564年)4月帰着 ☆

5、永禄7年(1564年)10月    ~同年11月帰着       ☆

6、永禄8年(1565年)11月    ~翌年(1566年)5月帰着 ☆

7、永禄9年(1566年)12月    ~翌年?帰着         ☆

8、永禄12年(1569年)11月   ~翌年(1570年)4月帰着 ☆

9、元亀元年(1570年)10月    ~同年10月帰着

10、元亀2年(1571年)11月   ~翌年(1572年)4月帰着 ☆

11、天正2年(1574年)2月    ~同年5月帰着

12、天正2年(  〃 )7月     ~同年11月帰着

☆は越年した時を示している。越年は実に9回している。

越年した時の正月は沼田城や厩橋城で過ごしている。

猿ヶ京の名前をつけたとされる永禄3年は、謙信30歳の時で初めての越山の時に当たる。この際に夢を占ったとされるのは直江山城守兼続だが、史実としたらおかしい。

直江兼続はその永禄3年(1560年)に生まれているので不可能。同じ直江でも謙信の家老として抜群の政治力を発揮した義父の直江大和守景綱なら1509年頃の生まれと推定されるので、妥当なところだ。

猿ヶ京の名前が初めて出てくる文書は、謙信が家臣の栗林政頼に出した書状に「猿京」の記載が見える。永禄8年(1565年)4月の書状になる。

明治9年に群馬県令より提出された『猿ヶ京村誌』に「貞治2年」「猿ヶ京と改称」とある。貞治2年と言えば1362年にあたる。こちらは村社に伝わる話を村誌として記録し、提出したもののようだ。

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謙信が天文21年(1552年)?に植えたとされる逆さ桜

暖冬を実感(^^;)

暖冬を実感(^^;)
今年は雪が少ないです。

MLB2006 日本人メジャーリーガーの群像 夢を追い続けて~斎藤・大塚の一年~

1月6日の深夜に放送された「MLB2006 日本人メジャーリーガーの群像 夢を追い続けて~斎藤大塚の一年~ 」は最高に面白かった。

横浜ベイスターズのエースとして活躍した斎藤隆は故障もあり、ここ数年間はかつての剛速球はなりを潜めていた。先発しても、セットアッパーとしてもチームを勝利に導く場面は極端に減ってきていた。

2006年、かつて野茂や石井が在籍した西海岸の名門チーム、ロサンゼルス・ドジャーズと契約した斎藤隆は開幕までにドジャーズのベンチ入りを果たせなかった。

一方、3年前にメジャーのサンディェゴ・パドレスの一員になった大塚晶則は、二年間念願のクローザーの座を射止めることが出来なかった。パドレスのクローザーはメジャーでもセーブ数の最高記録を持つ右の豪腕、トレバー・ホフマンがずっと務めていた。大塚はそのホフマンに繋ぐセット・アッパーがその役目になっていた。

2006年、大塚はトレードでパドレスからテキサス・レンジャーズに移籍した。レンジャーズにも既にリリーフエースは居て、大塚の役割は従来通りのセットアッパーと思われていた。

2006年の開幕前に大塚はWBCに出場、王ジャパンの貴重なクローザーを務めた。そしてその奇跡的と言われた決勝のキューバ戦、その優勝の瞬間に大塚はマウンドに居た。そしてその球状は大塚が2年間を過ごしたパドレスの本拠地ペトコ・パークだった。大塚は決勝戦の前にトレバー・ホフマンに電話して、もし決勝戦で投げる機会があったならば、ホフマンの投げるときに球場に流れるテーマソング「ヘルズ・ベル」を自分が使うことを許可して欲しいと頼んで承諾を得ていた。ペトコ・パークに駆けつけたサンディェゴの野球ファンは「ヘルズ・ベル」に送られて登板した大塚に温かい声援を送った。そして大塚は決勝戦のマウンドで胴上げ投手に輝いた。

4月7日にドジャーズに中継ぎ投手に怪我人が出て、斎藤はメジャーに昇格した。9日のインディアンズ戦に初登板した斎藤はワンアウトランナー1、2塁と言う場面を自らの好フィールディングでダブルプレーで切り抜けた。

それ以降、斎藤は中継ぎで好成績をキープ、夏前には故障のリリーフエース、ガニエの変わりにドジャーズの押さえを任された。決め球のスライダーは全盛期の切れを取り戻し、ストレートの球速は150キロ後半を数えた!

レンジャーズのクローザーも不調で、大塚にそのお鉢が回ってきた。大塚はそのチャンスを見事ものにし、テキサスのクローザーにのし上がった。テーマ音楽はもちろん、ホフマンから譲り受けた「ヘルズ・ベル」だった。

斎藤は地区優勝がかかったパドレス戦で、1点ビハインドの場面で投入されたが、3失点してリリーフに失敗、ダグアウトで頭を抱え込んだ。しかし、チームの打撃人は奮起、次の回、4打席連続ホームランと言ううそのような奇跡がおきて、延長戦もガルシアパーラのサヨナラホームランでドジャースは勝利した。そして、数日後プレーオフへの進出を決めた。その試合の最後のマウンドに居たのはもちろん斎藤だった。

大塚のチーム、レンジャーズはプレーオフ進出はならなかった。でも大塚は30を超えるセーブを記録し、念願だったメジャーのクローザーの座をつかんだ。

斎藤の属したドジャーズはプレーオフを通過してワールドシリーズに進むことは出来なかった。でも斎藤はここ数年にない充実感を味わった。

夢をつかんだ二人の日本人ベテランピッチャーを描いた秀逸のドキュメンタリーだった。

名補佐役ー「賢弟」武田信繁

 戦国武将に限ってみると、名補佐役と言われるのは堺屋太一氏が絶賛する太閤秀吉の異父弟(同父弟とも)豊臣秀長、司馬遼太郎の小説にしばしば出てくる毛利元就の三男で甥の毛利輝元を盛り立てた小早川隆景、豊臣政権、徳川政権に反抗の意志を隠さない兄義久と中央の板ばさみに立って苦心した島津義弘などが上げられる。

 武田信繁は武田信玄の弟で上記の豊臣秀長に並ぶ名補佐役と言われている。

 世に信玄家法と言われている武田家の法律は、徳川家康が江戸幕府を作った際の「武家諸法度」の参考になったと言われているが、実はこれは信繁が子供の信豊に残した武士の心得としての覚書が元になっている。

 武田家の法律を整備したのは信繁ということになり、それが江戸幕府にも影響を与えたことになる。

 徳川家康は武田家滅亡後に武田の旧臣を多く召し抱えた。また家老の石川数正が秀吉の元に出奔したことで、戦時の指揮系統を見直す必要があった。そこで武田の旧臣達の甲州流の軍学が役立った。自然と江戸幕府内では武田家および甲州流が尊ばれた。

 その過程の中で武田信繁が名補佐役、賢弟として世に広められたと言う傾向があるが、優れた人物であったことは間違いない。

 その辺を、今回のNHK大河ドラマ「風林火山」で嘉島典俊氏がどのように演じるかは、興味あるところである。嘉島氏は当地猿ヶ京温泉で、街道沿いの芝居小屋を平成の世の中に再現した「でんでこ座三国館」の名誉館長になっている。

 猿ヶ京は上杉謙信が名づけたと言う伝説や謙信が地面に刺した杖が根付いたといわれる逆さ桜など、上杉謙信にゆかりの深い場所でもある。

 しかし、今回は嘉島氏を盛り立てて、武田信繁にちなんだ「賢弟」「副社長」を優遇する宿泊プランなども面白いかもしれない。また信繁の通称「典厩(てんきゅう)」にちなみ、典厩鍋などの料理の開発も検討に値するかもしれない。

 ちなみに「真田十勇士」などで「十勇士」を率いる真田家の首領、真田幸村(ゆきむら)は本当の名を「信繁」と言った。これは父の昌幸が次男に武田の副大将であった信繁のような立派な武将になるようにと、その名を頂いたと言われている。

 猿ヶ京は上杉氏の支配の後、真田昌幸、信幸(之)、父子が治めた。従って幸村もこの辺りを通ったかも知れず、因縁を感じる。

 

 

上杉謙信(1)ー風林火山の登場人物その3

 上杉謙信(うえすぎけんしん)は1530年に生まれ、1578年に死去している。その間、成人してからも長尾景虎、上杉政虎、輝虎、出家して謙信と何度も名前が変わっている。ライバルの武田信玄は甲斐の国の守護大名の長男、太郎晴信が出家して信玄だから非常に分かりやすいことに比べると、越後の守護代の家で次男の謙信は家格が一段落ちることは認めざるを得ない。しかし、名前が変わるたびに、主家の上杉家を継ぎ、関東管領まで上り詰めたことを考えると、最終的には実力で信玄と遜色ない地位を得たともいえる。

 武田信玄の家臣団が一糸乱れない印象があるのに比べ、謙信の家臣団には忠義とかまとまりと言う印象はあまりない。兄の晴景を追って当主になったせいもあり、一門で実姉の婿である政景が油断ならない存在であり、柿崎景家や本庄繁長、北条高広なども何度も裏切りを重ねている。しかしそれでも謙信は恐れられていたので、最終的には従属したと思われる。謙信の参謀と伝えれる宇佐美定行は、長尾政景があまりにも油断ならない存在なので、野尻湖での船の宴に誘い出し、酒を飲ませ、政景もろとも湖に飛び込み事故と見せかけて暗殺したと伝わっている。

 謙信は何度となく三国峠を越えて関東に進出し、冬の間は関東で過ごすことが多かった。これは慢性的な飢饉状態だった当時の状況に鑑み、冬の間に関東で掠奪していたのである。一方、領国の越後では徳政令をしたりしているので、越後の民には喜ばれていたと考えられる。

武田信繁ー風林火山の登場人物その2

NHKドラマ「風林火山」の主人公、山本勘助が仕えた武田信玄。幼少の頃からから父信虎と仲が悪かったらしい。父信虎は同じ大井夫人との子で次男の信繁を愛し、武田家の跡は弟信繁に継がせたかったらしい。武田信玄の兄弟はこの弟信繁ともう一人、肖像画の名人と言われた逍遥軒信廉の二人が有名だ。この三人はよく似ていることから、信繁と信廉は信玄の影武者をよく務めたと言われている。特に弟信廉が信玄の影武者を務めたことは有名で、信玄の死後も影武者として信玄のように振る舞い、しばらくは他国の間者にも見破られなかったらしい。黒澤監督の映画「影武者」では、仲代達矢が弟信廉役を好演している。

さて、弟信繁の方は父信虎の寵愛を受けながらも、父信虎が駿河に追放された後も兄信玄を盛り立て、よき補佐役として歴史家から高い評価を受けている。左馬助を名乗ったので、中国風に「典厩」と言われていた。その辺はドラマでどのように描かれるか楽しみだ。ドラマで信繁を演じるのは大衆演劇の嘉島典俊で、猿ヶ京温泉のでんでこ座三国館の名誉館長だ。

弟信繁は1561年の第四回川中島の戦いで戦死するのだが、ある文献だと兄信玄の身代わりになって死んだとか、はじめから兄信玄の影武者の格好をして、討ち取られたとも言われている。子供の信豊も信玄の子勝頼の補佐役として滅亡まで武田家に尽くしている。

伝世している「武田二十四神将図」には一番上に信玄、直ぐその下に武田逍遥軒信廉、親族の穴山信君(梅雪)、武田四郎勝頼が描かれているが、典厩信繁の姿はない。最終的に勝頼を裏切り、武田家滅亡後は徳川家康に仕えた穴山信君がナンバー2の位置に描かれ、親子二代に渡って武田家に貢献した信繁親子の姿が見えないのも間尺に合わない話だ。

あけまして、おめでとう!猿ヶ京神明神社で迎えるお正月。

 きっちりと観た訳ではない紅白歌合戦の終了後、猿ヶ京の氏神様の神明神社まで歩いて行きました。神社に到着寸前にカウントダウンが始まり、路上で迎えた2007年でした。

 神明神社の石段を息を切らしながらなんとかはい上がると沢山の人たちが、初詣に来ていました。今年の年越しは天気がよかったこともあり、集まった人たちも「こんなに人がいるなんて・・・」と驚いていました。

 お賽銭を投げ、手を合わせると大人には、お神酒が振舞われます。破魔矢を買い、おみくじを引きました。結果は吉。商いは「利益を追うことなく、公益重視。」だそうです~

 恒例の太々神楽と餅撒きを見ることなく、早々に神明神社を退散し、帰宅。ためておいた温泉に浸かり、就寝しました。早々に初詣を済ますとすがすがしくていいですね。