上杉謙信(2)ー風林火山の登場人物
持谷靖子が猿ヶ京温泉史を書くに当たって、群馬県史資料編などをもとに調べたところ合計12回になるらしい。
1、永禄3年(1560年)8月越山 ~翌年(1561年)6月帰着 ☆
2、永禄4年(1561年)11月越山 ~翌年(1562年)3月帰着 ☆
3、永禄5年(1562年)11月越山 ~翌年(1563年)6月帰着 ☆
4、永禄6年(1563年)閏12月 ~翌年(1564年)4月帰着 ☆
5、永禄7年(1564年)10月 ~同年11月帰着 ☆
6、永禄8年(1565年)11月 ~翌年(1566年)5月帰着 ☆
7、永禄9年(1566年)12月 ~翌年?帰着 ☆
8、永禄12年(1569年)11月 ~翌年(1570年)4月帰着 ☆
9、元亀元年(1570年)10月 ~同年10月帰着
10、元亀2年(1571年)11月 ~翌年(1572年)4月帰着 ☆
11、天正2年(1574年)2月 ~同年5月帰着
12、天正2年( 〃 )7月 ~同年11月帰着
☆は越年した時を示している。越年は実に9回している。
越年した時の正月は沼田城や厩橋城で過ごしている。
猿ヶ京の名前をつけたとされる永禄3年は、謙信30歳の時で初めての越山の時に当たる。この際に夢を占ったとされるのは直江山城守兼続だが、史実としたらおかしい。
直江兼続はその永禄3年(1560年)に生まれているので不可能。同じ直江でも謙信の家老として抜群の政治力を発揮した義父の直江大和守景綱なら1509年頃の生まれと推定されるので、妥当なところだ。
猿ヶ京の名前が初めて出てくる文書は、謙信が家臣の栗林政頼に出した書状に「猿京」の記載が見える。永禄8年(1565年)4月の書状になる。
明治9年に群馬県令より提出された『猿ヶ京村誌』に「貞治2年」「猿ヶ京と改称」とある。貞治2年と言えば1362年にあたる。こちらは村社に伝わる話を村誌として記録し、提出したもののようだ。
謙信が天文21年(1552年)?に植えたとされる逆さ桜
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