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「なから」感動する本

最近聴いてんの・・・

2004.02.15~18バリ島

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    2004.02.15~02.18と4日間、インドネシアのバリ島に研修旅行で言ってきました。実質3泊でしたが、ウブド・コマネカリゾート2泊、ヌサドゥア・アマヌサ1泊と言うスケジュールでしたが、アマンリゾートのアマンダリ、アマンキラ、フォーシーズンホテルのサヤンなど代表的なスモールラグジャリーホテルを見学することもできました。極めてまじめな研修旅行でした。

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カッパ地蔵安泰祈願祭ー2

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暑い中、袈裟をまとったお坊さんの向こうでは、参列した村会議員や関係者の焼香とカッパ地蔵4体へお水をひしゃくでかけているところです。

このあと、村長やご来賓の挨拶があり、閉会後、直会(ナオライ)がありました。

われわれ、観光協会青年部員はネクタイ、背広を猿の着ぐるみに着替えて、Eボート大会に参加しました。結果は最下位 o(〃^▽^〃)o♪盛り上げが評価されてか、特別賞を受賞しました。

その後はまた例によって「F」で打ち上げでしたo(^∇^o)(o^∇^)o !。

カッパ地蔵安泰祈願祭ー1

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 平成17年7月31日午前11時から、猿ヶ京カッパ広場において、カッパ地蔵への祈願祭が行われました。わたしも新治村観光協会副会長として参列しました。このカッパ地蔵は切り絵師の石田良介先生のデザインによるものです。石田先生は失われ行く、東京上野谷中の風景を切り絵に残し、谷中の活性化につくしている人で、沼田高校出身の方です。

 カッパ地蔵は最初は一人?だけだったのですが、後に3人?加えられて4人家族になりました。名前もおとうさんが新太郎(慎太郎の方が団塊の世代には受けるかも・・・もしや、あの中村タマオ旦那のことか?その当時は☆ンツに○やくを忍ばせてたが・・・)、お母さんが治子(と言う思い浮かぶのは加藤治子)、長女が温子(これは浅野温子の影響か?)、長男が泉!(川古のあにやんや、法師、猿ヶ京にも多い名前です。)合わせて「新治温泉」と言う、公募したとしては出来すぎの、出来レースで決まったような名前です。

「だいたい菩薩様に名前をつけて良いのだろうか?(^^;」

 地蔵菩薩と言うことで、仏式で祈願祭は行われました。この一年、水難事故からの無事を祈りました。新治村としては、これが最後の祈願祭になりました。

このカッパ地蔵のもとになった話しは、相俣の笛木操さんから、うちのおかみが採話した「河童のくすり」と言うお話です。

http://www.sarugakyo.net/kamishibai/furoku/furoku2.html

ご参考まで。

上州の「温泉&グルメ」

 前の会社に勤めているときに、勤務先は神奈川県の横浜市で、そこの女子社員は神奈川の現地採用の女の子達でした。冬になると社内の若手で群馬の片品や苗場にスキーに来て、帰りは前橋辺りで昼を食べて帰ることが多かったです。

 焼き饅頭の原嶋屋でその場で焼いてくれる焼き饅頭を竹のスティックでつまんで食べさせたり、当時は街中にあった登利平の店でとり飯弁当を食べさせたりしたら横浜の女の子達も結構喜んでくれたような気がしました。

 今、隣りの栃木県では日光、鬼怒川などの山岳観光地に泊まったお客さんが、帰りに宇都宮で「みんみん」などの餃子を食べによることも多いと言います。

 今、前橋、高崎はパスタの街なんて言っていますが、美味しいパスタ屋さんはどのくらいあるんでしょうか。太田の黒いヤキソバ、伊勢崎のもんじゃ焼き、藤岡のラーメンと声は出て来ていますが、実際に観光としてみてどうなんでしょうか。

 やはり、東京の人達には水沢のうどんなんかを勧めるのが、無難なんでしょうか。それとも東京に負けない店もあるよ、と張り合うのか。

 その辺をこれから、探っていきたいと思います。

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写真は前橋市内某イタリアレストランのデザート「黒胡麻と豆乳のブラン・マンジェ」です (^。^;;。

海鮮カルパッチョ

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地元猿ヶ京旅館組合の会議のあとは、またいつもの「F」です。写真は新メニューの海鮮カルパッチョです。マグロ、タコ、海老、かつおをピリ辛く和えてあり、マヨネーズがかかっています。他に冷しトマトのバルサミコ漬け、筍の煮物など。ジントニック1杯、生ビール3杯で帰る。酔いざめは爽やかです。

ガラスの表札 JAPAN ブランド

 pic_0623隣りの月夜野町には日本で3本の指に入る、炉を持つ上越クリスタルと言うガラス工場があります。この地場産業として、郷土の誇りと言えるような資源を日本ひいては世界に通用するようなブランドに育てようと言う、JAPANブランドと言う事業が月夜野、水上、新治の三か町村の商工会共同で昨年度行われました。今年度はその継続事業と言うことで何回か会議が持たれます。 問題点は地元の人のこのガラスに対する意識、認識がイマイチと言うことです。一度も工場に入ったことのない人が沢山います。 わたしはここで何故、ガラスなのかと言うストーリーを作らないといけないと思いました。

 ガラスといえば南蛮文化。かつて戦国時代ここを治めていた上杉謙信は二度京都に上洛しています。そこでは当時のキリスト教の布教の中心地であった南蛮寺も見ていたと思いますし、そこに関連したストーリーなどははどうかなと考える第です。

 ちょうど大分県湯布院町が豊後の隠れキリスタンの影響を受けていたことから南蛮文化の香りのするパエリアやガラス食器を売り出しているように。

 写真は昨年度この委員会が試作した、ガラスの表札です。『旅館業界の松岡修造氏』と言われている方?の名前が刻んであります。

伊勢崎オートレース その2

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 伊勢崎オートの特別観覧席です。熱心に作戦を練る青年部の仲間達。やはりギャンブル好きの群馬県人の血が騒ぐようです。初めての人が多いのに、熱気むんむんになりました。一般の観覧席に言って見ると、予想屋さんの熱気や売店から漂う焼きそばの香りが独特の雰囲気をかもし出していました。伊勢崎の男臭さその3でした。

伊勢崎オートレース その1

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 初めて、伊勢崎オートレース場に行って来ました。

 VIPルームのような観覧席を用意して貰ったのですが、迫力はやはり外の観覧席です。この日は月曜日と言うこともあって、来場者は少なめでしたが、それでも3500人位の人が集まりました。ナイターの証明が灯り、人が集まっているのを見ると、都会のオアシスのような気がして来ました。カップルや家族連れの姿もちらほらあり、ギャンブルの街の人たちはここを夕涼みのアミューズメント・パークとして利用しているしたたかさを持っているんだなと妙に納得しました。 伊勢崎の男臭さその2でした。

スープカレー

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 昨日の昼は旅館の仲間が経営する伊勢崎市内のカレー専門店でスープカレーでした。スープカレーは今はやりのカレーですが、この店では店員さんのまかないで前から食べていたそうです。黄色い御飯(ターメリック(ウコン)ライス)とナンを両方出して貰って、その他にサラダとアイスコーヒーをインド人スタッフに支持して出してくれました。でもメニューにはまだ載せていません。載せるかどうかも経営者である旅館の仲間の判断なのでなんとも言えません。もの珍しいカレーの香りと、幅広く事業を展開する、彼の商魂たくましさに伊勢崎の男臭さその1を感じました。

7月23日の三国山お花畑

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 今日、7月23日もお花畑に行って来ました。18日に登ったときよりもしおれたニッコウキスゲが多く、そろそろ終わりかなと言う印象です。登る前はガスがかかっていて心配でしたが、登った瞬間に晴れ間が差して素晴らしい天候に恵まれました。

中庭のユリが咲きました

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 中庭のユリが咲きました。この辺りの崖地に生息するユリの花は初夏の白眉です。恋する女の人のために、多くの男達がこの花を取ろうと岩崖に挑み、命を落としたと言われています。ユリの花もその姿形が男を惑わせる魔性の花のような気がします。

 越中、富山の山奥には「クロユリ」が生えていて、戦国時代に佐々成政が豊臣秀吉の妻北の政所に献上したと言う伝説が伝わっています。北の政所はこれを珍重し、ことの他喜びました。しかしこれを見た秀吉の側室淀殿は実家浅井氏の旧臣に命じてこのクロユリを沢山取り寄せ、目立つところに北の政所に「こんなものは珍しくない」とばかりに投げ捨てました。北の政所は面目をつぶされ、成政はこのことがあだになり、肥後の国に左遷され、一揆の鎮圧に失敗して切腹して果てます。

 ユリはそれ自体が意思を持つように人間を数奇な運命に導いていく力を持っているのかも知れません。