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「なから」感動する本

最近聴いてんの・・・

2004.02.15~18バリ島

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    2004.02.15~02.18と4日間、インドネシアのバリ島に研修旅行で言ってきました。実質3泊でしたが、ウブド・コマネカリゾート2泊、ヌサドゥア・アマヌサ1泊と言うスケジュールでしたが、アマンリゾートのアマンダリ、アマンキラ、フォーシーズンホテルのサヤンなど代表的なスモールラグジャリーホテルを見学することもできました。極めてまじめな研修旅行でした。

猿ヶ京どんど焼

どんど焼はお正月に飾った門松や松飾りなどを持ち寄り、盛大にお焚き上げする
地域の祭です。

夕方に行うところもあるようですが、猿ヶ京はいつも午前9時から行います。

準備の人は7時半から出ていて、甘酒や焼餅の準備をしています。

餅は近くの小屋の中で炭火焼にし、黄な粉餅と磯部巻きにして来場した人に
お配りしています。

どんど焼は地域の人の厄除けも同時に受付ています。今年は男女合わせて9名の
方が参加しました。

若だんなも8時過ぎから参加しました。

2008年 お正月の膳

 お正月の膳delicious

 あけましておめでとうございますfuji

 旧年中は大変お世話になりました。

 本年もよろしくお願い申し上げます。

 さて、

 お正月三が日ははれの日のお食事なので、特別の献立を組みます。

 新春のおもてなし

 食前酒    山桃酒

 千代口    冬野菜の白酢和え

 御口取り   五目細巻き寿し

 御椀盛り   薄氷清汁仕立て

 御向附    平目 め鉢鮪 さくら鱒

 御菜     鰤照り焼き

 鍋物     鴨と地鳥の鍋

 御焚き物   春の香りの焚き合せ

 御強肴    とら河豚唐揚げ

 洋肴     上州牛ローストビーフ

 止椀     赤味噌汁仕立て

 御食事    かやく御飯

 香の物    べったら漬け

 水菓子    メロン苺豆乳チーズケーキ

 甘味     苺の豆富アイス

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「風林火山」から「天地人」へ

12月某日snow

12月16日に放送を終えた「風林火山」は男性配役に実力者を揃え、見ごたえのある戦国ドラマでした。

猿ヶ京の名づけ親、ガクトさんが演じた上杉謙信の描かれ方が余りにも話題性重視だったところが?

ではありましたが。

猿ヶ京ゆかりの嘉島典俊さんが、信玄の弟、信繁を兄思いの繊細な人物として演じたのは好感が持てました。

最終回で謙信の姉「お仙」が、謙信の無事を願って、わが子「喜平次」と仏壇に手を合わせるシーンがありましたが、この「喜平次」が後の上杉景勝で、再来年の大河ドラマ「天地人」の主人公、直江兼続の主君で謙信亡き後の上杉家に振りかかる苦難を直江とともに乗り越えていくドラマです。

わざわざこのシーンを入れたのは、再来年の大河ドラマ「天地人」へのバトンタッチの意味もあったと思います。

猿ヶ京温泉の猿ヶ京は上杉謙信が名づけたと言う伝説がありますが、その時に謙信にこれは良い夢だと言う、直江山城守と言う家臣が出てきます。この直江山城守が直江兼続のことです。

と言うことは、猿ヶ京の名前は謙信と直江の合作と言うことになります。

この逸話をどれだけ理解して貰って、宣伝できるでしょうかconfident

☆黄金色にかがやく!仏さま☆

9月某日

秋田県某所。某寺の仏さま。

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今年の十五夜

9月25日(日)は今年の十五夜でした。

ここ数年、十五夜は天気が悪く、月を眺められませんでした。

今年は珍しく、見事な月が出ました。

夕方の6時代から月が出始め、翌日の朝も丸い月を見ることができました。

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キュベヨシコで乾杯!

8月某日 

家人の誕生日を山形県の国産スパークリングワイン

「キュベ・ヨシコ」で祝いました。

蔵王ワイナリーで作られたこのスパークリングワインは

本場シャンパーニュに劣らない泡立ちと気品を湛えたワインです。

それでいて、キュウリに味噌を付けたのも良く合います。

フリュートグラスが「モエ・エ・シャンドン」のものなのが、ご愛嬌・・・

ホットな鰻重

8月某日

送り盆ということで、鰻重を取り家族でいただきました。

先日の店の水槽で泳いでいた鰻のうちの、どれかでしょう。

お盆に殺生はいかがなものかと思いつつも、

はっきりした味付けのこの鰻重と肝吸いをおいしく平らげました。

うなぎの遊泳

8月某日 

今年のお盆はとてもあついです。このままだと日本は亜熱帯になりそうです?

お墓参りの帰りに近くのラーメン屋さんで、味噌ラーメンを食べました。

「ねぎ味噌」と行きたかったのですが、「この季節はねぎが硬い」とのことで、

単なる味噌ラーメンになりました。

写真はその店の水槽で泳ぐ鰻です。

朝顔の季節

8月某日 

目にも鮮やかな、紫色の朝顔が花壇に咲いていました。

夏の野の 茂みに咲ける 姫百合の・・・

8月某日晴れ

同じ敷地内でも、ユリの咲く時期は微妙にずれています。

このユリはいつも最後にさきますが、北向きの日が当たらない花壇にあります。

蚊から愛犬をまもる♪

8月某日晴れ

月夜野のベイシアで、犬用の蚊取り線香を購入。

素晴らしい絵柄に思わず、シャメ。

泰寧寺

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花寺吉祥寺2

花寺吉祥寺2
観光の名所になっており拝観料もきちんと取る。季節の花々が売り物である。 庭園は見事だが、石仏、石塔のたぐいが豊富である。 それらは優品だけに絞り込んだほうが、わたしの好みではある。

花寺吉祥寺

花寺吉祥寺
5月某日晴れ 利根郡川場村の吉祥寺は九州豊後の戦国大名、大友氏の創建と言われている。

典厩寺ー武田信繁の墓所4

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永禄4年(1560年)の川中島の合戦では武田・上杉両軍合わせて6千人の戦死者が出たと伝わっている。

その戦死者の鎮魂に幕末の松代藩主真田幸貫が合戦三百年の記念殿として閻魔堂を建設し、閻魔大王を建立し、万延元年(1860年)に三百年祭の大法要を行い川中島の合戦で戦死した群霊の冥福を祈った。

しかし単に戦死者の群霊の鎮魂であるならば、死者を裁く閻魔大王をまつるであろうか。その力にすがりたい目的があったように思えてならない。

典厩寺ー武田信繁の墓所3

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信繁は兄信玄の副将格であったと言い。また名補佐役であったと言う。年齢差は5歳であった。

「影武者」では、信玄の副将格また影武者として12歳離れた弟の信廉(のぶかど)を山崎努が演じており、一門の長老として重臣達をまとめ上げることに腐心するところを好演していたが、実際の信繁はそんな感じで家臣と信玄のパイプ役を務めたのかもしれない。

墓石に刻まれた銘文は典厩寺のパンフレットによると、以下の通り。

永禄四年辛酉九月十日秋

松操院殿鶴山巣月大居士

甲斐源氏武田左典厩信繁

現在の大河ドラマ「風林火山」では信玄の市川亀次郎の弟として嘉島典俊が信繁を演じ、これもなかなかの好演である。

典厩寺ー武田信繁の墓所2

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典厩寺の本堂の壁には武田軍の風林火山(孫子)の旗と上杉軍の「毘沙門天」「懸れ乱れ龍」の旗が描かれており、ここが両軍が激戦を繰り広げた場所であることを示している。

典厩寺ー武田信繁の墓所1

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武田信玄の弟、信繁は永禄4年(1560年)の川中島の合戦で戦死している。

江戸時代元和八年(1622年)、川中島を治めていた松代藩主真田信之はかつての主筋武田氏の副将であった武田信繁の菩提を弔うために信繁の最後の地に近くにあった寺を信繁の通称「左馬助」の唐名「典厩」にちなむ典厩寺と改名し、永遠に史跡として記念することになった。

川中島古戦場3

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上杉謙信は黒糸縅の鎧に頭巾をかぶった姿が昔から一般的である。

ところが、伝わっている謙信の遺品と言われる兜は黄金作りの豪華なものが多く、イメージとの違いに戸惑うことがある。

実際の謙信はイメージと違い、リッチでハイカラな武将だったのではないか。

川中島古戦場2

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武田信玄と言うと高野山に伝わる、でっぷりと太った肖像画が有名である。

ところが近年の研究でその肖像は畠山某を描いたとされ、実際は土岐頼康像と

言われるものが信玄を描いたのだと言う説がある。

黒澤明監督の映画「影武者」では当初、太った信玄像が監督の念頭にあったらしく、勝新太郎が配役されたが、撮影が始まるとすぐに黒澤と勝は対立、勝は降板した。代役の黒澤映画の常連仲代達矢はスリムで貴族的な信玄を演じた。

奇しくも最近の研究で信玄はスリムであったことが、有力であり、仲代の信玄像は実際に近いものとなった。

川中島古戦場1

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五月某日 朝から快晴。

長野県各所を訪問。その途中、長野インターを下りるとすぐに右側に八幡原古戦場の跡の公園が見えてくる。駐車場やトイレが整備されており、気軽に立ち寄ることが出来る。

この公園の呼び物は八幡宮の手前にある上杉謙信と武田信玄の一騎打ちのブロンズ像だ。

謙信と信玄が実際に戦場で一騎打ちで戦ったかどうかは定かではない。ただ近衛前久が謙信に送った書状に謙信が自ら刀を取って戦ったと言う記述がでているが、信玄と大将同志が一騎打ちしたとは書いていない。相当な激戦であり、突発的な接近戦だったと思われる。

また八幡原に信玄の本陣があったかどうかも最近の研究では疑問視されている。

上毛高原近く謎の石塔3

上毛高原近く謎の石塔2

上毛高原駅近く謎の石塔1

五月某日

上毛高原駅近くの小川城跡の付近の畑の中に7体の地蔵菩薩を周囲に従える石塔を発見した。ちょっと見た限りでは碑文は見当たらず、制作年代もはっきりしない。

何らかの供養塔と思われるが、謎の石塔である。

花時計

花時計

5月某日 

猿ヶ京温泉満天星の湯の駐車場のかたわらに花時計がある。この駐車場のある場所は前は見晴館と言う旅館が立っていたところで、その旅館を取り壊してこの満天星の湯が立てられた。見晴館時代のなごりは駐車場の片隅に昔の庭園のあとの庭石と祠があるところにわずかにしのぶ程度である。かつてはそこに池があった。鯉も泳いでいたのではないだろうか。旅館の玄関は駐車場から階段を一段上がった所にあり、そのロビーの建築はモダンな感じがした。私が猿ヶ京に戻ってきてから一度も見晴館で宴会などの利用をしたことはなかった。

カッパ広場の河童地蔵

五月某日
猿ケ京の不可思議な動物を訪ねる旅、湯のまちから北側の赤谷川の川原へおりていくとカッパ広場がある。ここはダムが出来る前は生井川原と言われ、温泉が沸いていた。旅館も3軒あり、そのうちの一つがわが猿ヶ京ホテルの前身、桑原館だ。
カッパ地蔵と言うからには地蔵菩薩であり、観音様と同格の仏様と言うことになる。「カッパのこう薬」という伝説があり、それによれば、昔から地元の信仰を集めていた地蔵さんなのだという。
にもかかわらず、新太郎という俗っぽい名前を持ち、治子と言う妻がいて温(あつし)、泉(いずみ)の1男1女?を設けて一家を形成している。年齢は昭和62年生まれなのでまだ22歳位である。当初はカッパ地蔵のみがこの場所に現れた。数年後、妻と二人の子供達も呼び寄せたようだ。その時に俗名も明らかになり、「新治温泉」の4文字をそれぞれ頭にいただく家族であることが判明した。その名前は当時の新治村観光協会にとっても歓迎すべき名前であった。思うにカッパ地蔵の方でも家族を呼び寄せるにあたり、毎年法要を行ってくれる新治村当局と観光協会に配慮し、もともとの名前をそのように改名したものと思われる。
現在は新治村は他の2町と合併しみなかみ町になっている。新治村観光協会もまた合併し、水上町まちづくり観光協会に変わっている。
ことしも7月29日に国土交通省(ダム管)肝煎りによるカッパ祭は開催されるが、恒例のカッパ地蔵の法要はおこなわれるのだろうか。

09年大河は「天地人」直江兼続を描く

5月某日
新聞によりますと、再来年2009年のNHK大河ドラマは標記の通り、
直江兼続を描いた「天地人」に決定したと言う。

以下(某新聞記事による)

09年大河は「天地人」直江兼続を描く
NHKは4月26日、09年の大河ドラマを「天地人」に決めたと発表した。
上杉景勝(かげかつ)の家臣で、戦国時代に「義」の精神を貫いた
名将、直江兼続の波乱の生涯を描く。原作は火坂雅志さんの同名小説
で、脚本は連続テレビ小説「どんど晴れ」を手がけている小松江里子
さん。配役は未定。

以上

先日、上越市の春日山山城跡を散策した際に、城跡公園の売店で目にし、
きになって購入した「天地人」が大河ドラマになると知り、驚いています。
直江兼続は上杉謙信の猿ヶ京の命名伝説でも登場する知恵者として知られ
る人物でそう言う意味では猿ヶ京にゆかりの人物でもあります。
何とか再来年の放送時には関連づけたいですね。

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5月4日の赤谷湖

GWウィークの最盛期を迎えた赤谷湖は、なんとか水も満水になり行楽シーズンの体裁を整えた感がある。普通のオフシーズンに関してはいつも6~7部の湖水で済ましているが、GWには最高の晴れ姿で行楽客の目を楽しませてくれている。今年は記録的な暖冬で、雪解け水独特の酸素を多く含んだコバルトブルーの湖水と言うわけにはいかず、このような澄んだ真っ青な色ではじめから満水の状態であるというのも珍しいことではないか。またつい2~3日前まで丸坊主のようだった周囲の山の木々の様子もここに来ていっせいに新芽が芽吹き始めた。

これから梅雨時の数ヶ月は赤谷湖は年間で一番美しい姿になる。その後夏季に入ると下流域のためにダムの水は減る一方となる。ダム湖の宿命として仕方ないわけではある。ダムの名前自体は地名を取って相俣ダムと命名された。湖の方も「相俣湖」となるところ、猿ヶ京温泉から異論が出たため、河川の名前を取って赤谷湖と命名されたと言う。現在ダムサイドのほとりには、湖に突き出した形で展望台が設けられている。そのの一角に「日本ダム湖百選」と言う石碑が建てられている。平成17年に指定されたとのことだ。湖の規模のわりにダムの大きさが小さいのは、赤谷川の非常に狭隘な渓谷を利用してこのダムは建てれているからである。昭和30年に完成しているが、すぐさま水漏れが表面化し、水漏れ防止の工事を何年かかけて完成させている。したがってダム自体は長さはあまりないのだが、使用されたコンクリートの量は相当なものになっていると思われる。

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0704151_093 かまぼこの表面には謙信公の旗印「毘」も文字が染め抜かれています。

さらにその下には、越後名物の笹団子も添えられていました。

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0704151_091 熊笹の包みの中には、栗おこわと白米に紫蘇のふりかけをふったおにぎりが一個づつ入っていました。

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0704151_089 中をひらくとこの様になっています。謙信公の旗印「毘」の文字の紙包みのん中は「塩」です。謙信公が武田信玄に塩を送ったとする話「敵に塩を送る」の故事にちなんでいます。

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0704151_088 駅弁の表紙にはお坊さんの姿でありながら軍を指揮する軍配をもった謙信公が描かれています。

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0704151_087 直江津駅の名物駅弁、「謙信公お立ち飯」です。

この日は強風で電車が動かず、駅の構内は電車の遅れであせっている人々であふれていました。

この駅弁は改札口を入った所で売っていて、わざわざ入場券を買って入り、買いました。

お立ち飯とは謙信公が戦争に出る前に兵士達に振舞った豪華なご馳走のことです。

浜善光寺4

0704151_086 正面から見た十念寺(浜善光寺)。

一方、武田信玄も善光寺の本尊を甲斐の国に持ち帰り、そこに善光寺を立ててしまいました。

由緒あるご本尊を持っていかれた謙信公は悔しかったのでは、ないかと思います。

その御本尊、信玄死後、武田家の滅亡の後は豊臣秀吉が一時確保していたともきいていますが、現在は元の長野市の善光寺に収まっているようです。

その遍歴を探ってみるのもまた面白そうです。

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0704151_085 門の脇に、「信州善光寺大本願別院」とあります。

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0704151_084 十念寺のお堂にかかる「浜善光寺」の額です。

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0704151_083 現在の十念寺はかつて、謙信公が信州の善光寺の僧達をこの本拠地の越後の府中に移した場所にあたります。

日本海の浜辺に近かったので、浜の善光寺とも言われていました。

御館3

0704151_082 御館公園の遠景です。今はこの四角い公園の区画にかつての館の広さを想像するしかないのです。

御館の乱は上杉景勝、直江兼続主従の勝利に終わり、敗れた上杉三郎は鮫ヶ尾城で自刃し、その前にこの御館は攻められて焼け落ちました。

御館2

0704151_081 公園の車止めにはめこまれた「御館公園」のレリーフ。

ここは上杉三郎に味方した、上杉憲政(のりまさ)が、北条氏に本拠地だった上州の平井を追われ、謙信公に保護され、上杉の姓と関東管領と言う役職を譲り、余生を送っていたとこrではありますが、謙信公の跡目争いに憲政も巻き込まれ、景勝の家来に殺害されてしまいます。

御館1

0704151_080 現在の直江津駅近くに史跡「御館(おたて)」はあります。

かつては越後の国の政庁が置かれたと言われ、最近の発掘調査だと二重の堀を持つ堂々たる居館だったことが分かっています。

ここは謙信公亡き後の上杉三郎と上杉景勝との跡目争いのことを御館の乱と言う元になったところです。

来年の上杉景勝の家臣直江兼続を主人公とするNHK大河ドラマ「天地人」のクライマックスになるかと思われる事件がその御館の乱なのです。

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0704151_077 林泉寺の最初に見た門を後ろから見た画像です。これもまた小ぶりなりに美しい門です。

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0704151_076 林泉寺の楼門を後ろから撮影した画像です。「第一義」の画像は謙信公の揮毫(きごう)したものです。謙信公は戦においても「義」を重んじた武将と言われています。

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0704151_075 再び謙信公のお墓を遠景から撮った画像です。

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0704151_074 謙信公の父の長尾為景公の石塔。謙信公が幼少の時になくなりました。その時に越後の国は乱れていて、そのお葬式に謙信公は幼いながらも鎧を着て参列したと言われています。

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0704151_073 謙信公の父、長尾為景(ためかげ)公と祖父の長尾能景(よしかげ)公のお墓です。

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0704151_072 川中島戦死者供養塔。

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前の小さい石塔がもともとのお墓で、後ろの大きい石塔は近代に華族となった上杉家の子孫が立てたものらしいです。

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謙信公のお墓の正面です。

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これは川中島の戦いで戦死した越後の兵士の供養塔です。

時代は新しそうです。

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これが謙信公の墓と言われている石塔です。

謙信公は死後、鎧を着けた姿で漆で固められ、甕に入れられ、春日山城に安置されていたとも言われていますが、後に上杉家が関が原の戦いの後に徳川家康の命令で米沢に移ったときにその霊廟が米沢に建てられています。