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「なから」感動する本

最近聴いてんの・・・

2004.02.15~18バリ島

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    2004.02.15~02.18と4日間、インドネシアのバリ島に研修旅行で言ってきました。実質3泊でしたが、ウブド・コマネカリゾート2泊、ヌサドゥア・アマヌサ1泊と言うスケジュールでしたが、アマンリゾートのアマンダリ、アマンキラ、フォーシーズンホテルのサヤンなど代表的なスモールラグジャリーホテルを見学することもできました。極めてまじめな研修旅行でした。

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猿ヶ京某所 うな重

猿ヶ京 歩のうな重

 先日、東京駅の近くの某デパートのレストラン街でうなぎを食べました。はっきりしない味でご飯も控え目。

 一方、猿ヶ京某所ののこのうなぎは大きくて、たれの味がはっきりしています。しかもご飯の盛がすごく多くて、残さず食べるのが大変でした。

リベル・タンゴ

 今年も秋がやってきました。秋のドライブにかかせないのはこのヨーヨーマのプレイズピアソラです。特に大好きなのはアルバム冒頭のリベルタンゴです。これを聞くと秋が来たんだなあと言う気分が高まります。90年代後半のある時期、秋になると毎日聞いていた覚えがあります。また4曲目のル・グラン・タンゴも思索的でおすすめです。

 秋の夕暮れ、街角に車を走らせるとボンネットにはケヤキ並木の枯葉が振りかかってくる。そんな情景が目に浮かぶアルバムです。もちろん、国道17号、猿ヶ京付近のタソガレにもイメージがぴったりです(^。^;;。

 

 

猿ヶ京音頭ー1967年

 毎年夏に猿ヶ京温泉で行われる夏祭りで、この猿ヶ京音頭の三橋美智也のよく伸びる歌声を聞くこともなくなりました。夏祭りはかつては猿ヶ京温泉祭であったのが、にいはる夏祭りになったので、猿ヶ京音頭はかからなくなりました。

 今では猿ヶ京小学校の運動会で子供達と父兄の有志?が踊る時に聞くのが唯一の機会となりました。

 三橋美智也は1967年当時はどうだったのでしょう。おそらく全盛期?以前テレビでやっていた特集番組では毎日のようにレコーディングしていた時期があったようです。ちょうどそのころだったのではないでしょうか。

一、花の東京と 新潟を 中で結んで四十五里 

  ここは上越 国ざかい 山の竜宮 猿ヶ京

  チョイト 寄ってきな

 山の竜宮にはきれいな女の人達がいっぱいいた筈です。昔の猿ヶ京は芸者で売っていたそうです。芸者さんの顔写真だけのパンフレットや、日中は芸者さんとハイキングと言う企画もありました。一対一は禁止されていたんでしょうね、多分(^。^;;。

ニ、春はつつじの 赤谷川 秋は七草 みずうみの

  河鹿なく音に ききほれて たれたつり糸 何をつる

  ちょいと 夢をつる

湖に河鹿はいないだろう、と思うわけですが、その部分がこの音頭の聞きどころでもあります。この辺りが三橋美智也の美声の面目躍如と言える部分です。

三、走る国道 星月夜 照らすライトも ほのぼのと

  若い二人の ささやきは 恋のドライブ いつまでも

  ちょいと どこまでも

われわれも小学生のころ、運動会の練習で何回も猿ヶ京音頭の踊りの練習をしました。この「恋のドライブ」のくだりのあたりは、小学生には刺激の強すぎる部分だったかも知れません。

四、スキーたのしむ スロープの 雪の中から 石楠花が

  きょうもにっこり 呼んでたぜ 山の竜宮猿ヶ京

  ちょいと お湯の里

わたしは歌詞カードを手にするまで、「きょうもにっこり 呼んでたぜ」のところをずっと「今日も良い娘と 飲んで食べ」と思っていましたd(^-^)ネ!昔はスキーが商売になったんですね。わたしが小学生の頃は貸しスキーのお店がかなり猿ヶ京にありました。靴はまだゴム製で、板もビンディングなんてなくてばねで留める式だったように思います。

よその人にとっては、面白くもなんともない、猿ヶ京音頭のうんちくですが、わたしにとっては大切な思いで?が走馬灯にように思い出されてくる時に必要な心のBGMなのです。

(2005.10.19 N氏よりレコードを寄贈いただきました。)

Saruondo

仏岩

 県道相俣水上線のかつては新治村、水上町の町村境であった仏岩トンネル。この不思議なトンネルの名前は新治側から見てトンネルの右側の平坦な稜線上に立つ巨大な茶色の岩=仏岩に由来しています。作りかけの大仏が左を向いている姿とでも言いましょうか。車のない時代はここは「赤谷越え」と言って徒歩で行き来していました。仏岩には鎖が付いていて首の所まで登れると聞いたことがあります。いずれそこまで登ってみたいと思います。

 今、新しい「みなかみ町」に合併によりなり、行政的な町村境はなくなりました。しかし気持の上の境界線がなくなるまで、まだまだ時間がかかりそうな気がします。

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Hotoke

あかねさす・・・

 猿ヶ京温泉に秋が訪れました。日1日と深まってまいります。秋の野を犬と散歩する時、万葉集に収められた額田王(ぬかだのおおきみ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)の次の和歌が思い浮かびます。しばし古代近江朝廷の時代にタイムトラベルして見ましょう。

あかねさす紫野行き標野(しめの)行き

           野守(のもり)は見ずや君が袖振る

                      額田王(ぬかだのおおきみ)

むらさきのにおえる妹を憎くあらば

           人づまゆゑに 吾恋ひめやも

                    大海人皇子(おおあまのおうじ)

 あかねさす、とは明け方の朱色が射してくることらしいです。(額田王が)紫野と言う御領地の野を夫である天智天皇をはじめ宮廷に仕える者達が行進して行くと、こともあろうに天皇の弟で、元カレの大海人皇子が(私に向かって)大きく手を振っています。(警護の者達が見ている前で。)

 これに対する大海人皇子の歌は、紫の匂えるあなたをもし憎く思っていたならば、兄の妻なのに関わらず、恋しく思ってはいないだろう、と言う意味の様です。これは宮廷で狩りでも行われた後の懇親会の即興歌で相聞歌風に作られたと言われています。今で言えば飲み会で意気統合した二人がカラオケで思わせぶりな歌を唄い合うようなものだったのかもしれません。天智天皇も大海人皇子も当時の上流階級の常で沢山の妻妾を侍らせていたので、当人同志は余り深刻に作った歌ではないのかもしれません。それでもこの歌は万葉集の中の白眉として後世に伝わっています。

写真は県道相俣水上線沿いのすすきの野原です。

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尾瀬ケ原ハイキング3

尾瀬ケ原ハイク3

 尾瀬ヶ原に鳩待峠から入ると、山の鼻まで下って行きます。つまり最初は下りの登山になります。そして日帰りの場合、木道を行けば行くほどひき返してくる帰りの距離が遠くなります。そして最後は鳩待峠の坂道を登り、登山を終了します。

 草紅葉とやらを期待しての尾瀬ヶ原行きではありましたが、天候も曇り原の葉の色もご覧の通りでした。紅葉と言えば写真右側の通称牛首の峰伝いの木々が紅葉、黄葉していました。都会の人は紅葉を喜びますが、山の人間にとっては冬の到来を告げる一里塚のようなもので、一層寂寞の思いを強くします。

 湿原に敷設された木道を右側通行で行くと、独特の心境に陥ります。頭がぼんやりとしてきて、眠くなってきます。

 いずれにしても、今年は初夏のニッコウキスゲの当たり年でした。まがりなりにも秋の草紅葉も鑑賞できました。来春には水芭蕉の咲く頃、訪れるつもりです。それで私の尾瀬ヶ原探訪は一区切りと考えております。

尾瀬ヶ原 ハイキング2

池塘(ちとう)のオゼコウホネ?かヒツジグサ?が紅葉しています。

尾瀬ヶ原 ハイキング

10/10(日)は尾瀬ヶ原にハイキングに行きました。

コースは鳩待峠 → 山の鼻 → 牛首三叉路 → 山の鼻 → 鳩待峠と言う軟弱コース。時間も午前9時30分出発、午後3時帰還と言うスローペースでの行程でした。心配された人出ですが、連休の最終日にも関わらず、「尾瀬銀座」と言えるほどの人ごみでなかったのが、幸いでした。

写真は牛首三叉路から竜宮方面を望む方角です。あかねさすような草紅葉を期待していたのですが、秋の終わりを既に告げているような風景です。

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駅からハイキング

10月8日は後閑駅の駅からハイキングでカッパ広場で植樹と猿ヶ京赤谷湖畔のハイキングのお手伝いででかけました。しかし、受付はイベント会社のスタッフが揃っていたので、なにもやることがありませんでした。しかたないので、ころあいを見て帰りました。

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コブシの集合果

 ちょっと、どっきりする形ですが、コブシのこぶの多い集合果です。もっとたつと袋果が裂けて、赤い種が出てきます。強い生命力を感じます。場所は猿ヶ京の私のうちの中庭です。